2010年11月07日
近藤真彦
タレント活動 [編集]
1979年10月、TBSのドラマ、『3年B組金八先生』の生徒役でデビュー。同じく生徒役だった田原俊彦、野村義男とともに「たのきんトリオ」として活躍。その後ソロ歌手デビューし、1980年代を代表する男性トップアイドルとして君臨し、ザ・ベストテンやザ・トップテンなどの歌謡番組を中心に活躍した。1981年、1983年のブロマイド年間売上成績で第1位を獲得。また、ファンによる数々の“親衛隊”も誕生。(事務所では「応援グループ」という呼び名で統一。親衛隊という言い方はさせなかった。代表的なグループは、上下関係が厳しいので1つにあげることはできない) そして、ステージ用の応援コールとして「G・U・T・Sこんどーまさひこアダルトタッチのセクシーボーイ ま~っさひ~こ~」というフレーズも作られた。また男性アイドルとしては珍しく、同年代の男性ファンも多く獲得、歌手活動と並行してテレビドラマや映画などで俳優としても活躍した。
2005年末にデビュー25周年を迎え、ソロとしては7年7ヶ月ぶりに新曲「挑戦者」をリリース(楽曲提供ロクセンチ)し、芸能界への復帰を宣言。復帰の第一弾として25周年記念ディナーショーを開催し、歌手としては約7年ぶりにファンの前に姿を現した(鹿児島、東京公演では少年隊がゲスト出演)。同年以降のジャニーズ年越しライブにもスペシャルゲストとして参加している。ジャニーズ事務所では一番の年長者である(自称ジャニーズの長兄。次兄は「少年隊」。少年隊に関して厳密なことを言うとメンバー最年長である錦織一清ということになる)。
2007年5月9日に発売されたLIVE DVDについては、映像作品では1987年3月30日付にビデオ『OH!ROCK'A MONO』で獲得して以来、実に20年2か月ぶりの1位獲得となった。2006年9月1日放送の「金曜エンタテイメント『内田康夫旅情サスペンス 岡部警部シリーズ~倉敷殺人事件~』(フジテレビ系)では「ドンウォリー!」以来のドラマ主演を務め、シリーズは2007年8月31日に第2弾として『~多摩湖畔殺人事件~』2008年9月5日に第3弾として『~十三の墓標~』が放送された。
ジャニーズの後輩達に関しては、「本来は同じ芸能界で活動するライバルなので厳しくしなければならないが、自分が一番の年長者で歳も離れているので、慕ってくればつい優しくしてしまう」と発言している。なお、親しい間柄の後輩は東山紀之、木村拓哉、堂本光一と雑誌で語った。東山や光一はマッチの曲(『アンダルシアに憧れて』など)を踊り付きでカヴァーすることがよくある。
芸能記者同士の座談会などで応対の良い有名人の一人に良くあげられている。その理由として、後述のレース活動が大きく影響しているからだといわれている。
ジャニーズ系タレントでは珍しくNHKのど自慢への出演経験がある。1997年4月13日に石川県川北町の放送で出演した後、長らく出演が途切れていたが、2010年11月21日の放送で13年ぶりに出演することが決定した。
レース活動 [編集]
ドライバー [編集]
1984年に富士フレッシュマンレース第2戦(現・富士チャンピオンシップレース)に参戦(35400人の観客を動員)したのを皮切りに、「日本一速い男」の称号を持つレーサーの星野一義のもとでレース活動を始め、1988年から1993年にかけては全日本F3選手権に参戦。
1994年には全日本GT選手権(現 SUPER GT)にポルシェ962CのGTカー仕様で参戦し、第3戦(富士スピードウェイ)で、ベテランドライバーであるチームメイトのアンソニー・レイドとともに全日本選手権初優勝を飾る。その後も、ル・マン24時間レースやフォーミュラ・ニッポンなどを中心に活躍し、多くの上位入賞を飾った。
現在は後述するチームオーナー兼監督業をメインにしているが、ミッレミリアやスーパー耐久への参戦などドライバーとしても散発的ながら活動を継続している。2007年7月にはスーパー耐久の一戦である十勝24時間レースに「FINA GSX ADVAN M3」チームの助っ人として出場し、ST3クラスでクラス優勝を果たした。
オーナー兼監督 [編集]
2000年に自らのレーシングチーム「KONDO Racing」を設立。以後の監督としての活動の詳細はKONDO Racingの項を参照のこと。「KONDO Racing」設立前の1998年には、当時所属していた「チームTMS」の協力により、若手ドライバー育成を目的に「KONDO MASAHIKO RACING PROJECT」を設立して全日本F3選手権に1年間監督として参戦し、レーシングチームのノウハウを学ぶ。そして2000年からKONDO Racingでのフォーミュラ・ニッポンへの参戦を開始し、2006年からSUPER GTへの参戦も開始した。
2007年にはSUPER GT第4戦(マレーシア・セパンサーキット)にて、KONDO Racingとしての劇的な初優勝を飾る。2008年もセパンサーキットで優勝し連覇を達成したのに続き、フォーミュラ・ニッポン第7戦(富士スピードウェイ)でも8年目にして初優勝を達成した。2009年は世界的な景気後退の影響を受けてフォーミュラ・ニッポンへの参戦は休止するが、SUPER GTには引き続き参戦。2009年SUPER GT第1戦(岡山国際サーキット)にて、豪雨を制し国内初優勝を飾った。
評価 [編集]
全日本GT選手権では優勝を飾る他数々の入賞経験があるなど活躍を見せた。しかし、若手ドライバーの登竜門の全日本F3選手権での優勝経験がない他、1995年から2000年まで参戦した全日本F3000選手権 → フォーミュラ・ニッポンと続く国内トップフォーミュラにおいては、荒天で大荒れのレースとなった1996年の最終戦に6位入賞したのが唯一のポイント獲得であり、トップフォーミュラのドライバーとしては目立った実績は上げることはなかった(なお、F3・F3000クラスのフォーミュラでの優勝経験がない国内トップクラスのドライバーは、土屋圭市や福山英朗など他にも多数いる)。
しかし、当初は「芸能人の道楽」と冷ややかな視線を送られたにも関わらず、結果だけでしか評価されないレース活動を続ける中で、地道に努力しプロのレーシングドライバーでも成し遂げることが難しい全日本GT選手権における優勝やフォーミュラ・ニッポンでの入賞など、プロのレーシングドライバーに伍する結果を出していった様子を評価する向きも徐々に増えていき、現在では元からプロのレーシングドライバーとしてデビューしたドライバーに並び、日本のレース界の中枢で存在感を持つ存在となった。「サーキット上ではアイドルの『マッチ』ではなくレーサー『近藤真彦』なので『マッチ』と呼ばないでほしい」と述べたこともある。
1995年に日産自動車のワークス・チームであるNISMOからエントリーしたル・マン24時間レースに於いては、他のマシンが600馬力、6速シーケンシャルシフト等が当然の様に装備された準レーシングカー的なマシンが跋扈する中、最大出力が450馬力程度のHパターン5速ミッションと非力で、しかも空力的にも必ずしも良いとは言えないNISMO GT-R LMというマシンながら、共に22号車をドライブするパートナーの福山英朗・粕谷俊二と共にレース中降り続いた雨の中安定した走りを続けた。そして最終的に総合10位(GT1クラス5位)に食い込む大健闘を見せた。
また近藤は四半世紀以上に渡り日本の4輪モータースポーツに関わり続け、バブル景気崩壊後や、2008年以降の世界同時景気後退後に大口スポンサーの撤退が相次ぎ国内トップカテゴリーの参戦台数が減少する中で、地道に独自スポンサーを獲得してレース活動を継続している上、独自のチームを率いフォーミュラ・ニッポンやSUPER GTといった国内トップカテゴリーで10年以上に渡り活動を継続している。特に横浜ゴム(ADVAN)とは強固な関係を築いており、SUPER GTやル・マン24時間では横浜ゴムのワークス・チームとして活動を行っている。
TBS『うたばん』に2008年ゲスト出演した際、自分の宝物としてレコード大賞のトロフィーとともに「KONDO Racing」初年度に着ていた監督シャツを並べた際に、その汚れたシャツに鑑定士の前野重雄が100万円もの値をつけたこともある。いわく「そのシャツにセパンでの優勝日付を入れてください」、そのうえでの価値と、前野が、近藤がスターからサーキットに乗り込んできた際にどれだけ先輩レーサーらから総スカンに遭ってきたかを語った。それらを誰にも言わず耐えてきた末に成し遂げた、監督としての初優勝には過酷なセパンでの優勝だけに「より重い価値がある」と説明すると、近藤は鑑定席に歩み寄って前野の手を握り涙を流した様子が、後日の名場面集『とくばん』で放映された。
レース界での交友関係 [編集]
レース界でも交友関係は広く、レーサーとしての近藤の師匠的存在である星野一義はもちろんのこと、土屋圭市や鈴木亜久里、脇阪寿一とは仲が良い。
またかつてのチームメイトとして片山右京、木下隆之、影山正彦、鈴木利男、竹内浩典など、監督とドライバーとしてエリック・コマス、土屋武士、立川祐路、金石勝智、荒聖治、山本左近、横溝直輝といった面々とも仲がよく、交友関係は幅広い。2006年から監督としてのSUPER GT参戦が決まった際には星野や長谷見昌弘の同じ日産陣営の監督らに大歓迎された。
その広い交友関係を生かし、2006年より東京・お台場で行われているモータースポーツジャパンでは、イベント全体のスーパーバイザーを務めている。
F1中継 [編集]
フジテレビのF1中継(F1グランプリ)に1989年日本グランプリでレポーターとして登場し、数年間務めた。その後、2003年からF1中継のレギュラー解説者を務めている。だがF1ファンからは解説に対して批判的な意見も多い。[要出典]
その他 [編集]
「マッチ」という愛称は、近藤が3年B組金八先生にデビューした頃は坊主頭で、事務所の先輩の松原に「お前、マッチ棒みたいだな」と言われたことによる。[1]もっとも、レコードレビュー後の近藤は、一貫して髪を伸ばしており、一番短いときでも角刈りである。短髪を披露したのはは95年夏(同時期に『最後のラブ・ソング』が発売されている)が最後である。
1981年に田原俊彦主演映画「グッドラックLOVE」の撮影中に、田原と共にその場にあった自転車を無断で乗り回し、撮影現地の警察に逮捕された。その事が報道された際、田原は20歳以上だった為実名で表記されたが、近藤は20歳未満だったため「少年A」と表記された。
2004年8月4日の午前和歌山県白浜町の白良浜沖でゴムボートから転落して溺れていた当時小学2年生の男児を近藤が水上バイクで近づいて「大丈夫だ、お兄ちゃん(=近藤)が助けてやる」と海に飛び込み救助[2]。近藤は名前も言わずさりげなくその場を去ったが、少年の父親は後で救助してくれた人物が近藤だったことを知った[3]。この事故の朝日新聞の見出しは自身の歌のタイトルから拝借された「人命救助さりげなく」であった。
2009年9月6日、第21回佐渡国際トライアスロン大会、Bタイプ(水泳2km・自転車105km・マラソン20km)に出場。自転車で転倒、右肩甲骨骨折したが完走。7時間13分9秒、順位は、Bタイプ完走者661人中389位。(Bタイプ参加者の成績・ラップタイム一覧表 [1] )
2010年4月18日開催の第26回全日本トライアスロン宮古島大会に参加し、13時間20分0秒で完走を果たした。
2010年、NHK教育テレビ「いないいないばあっ!」むけに「GOGO☆パンダ」を作曲した。
趣味は自転車 ・ミニカー収集である。
自称「日本一の雨男」。特に花火大会を観に行こうとするとなぜか雨天中止になることが多いという。2010年8月に神宮外苑花火大会に出演した際も上空に雲が立ち込め開催が危ぶまれたほど(ただし雨は降らず、大会は無事開催された)[4]。
1979年10月、TBSのドラマ、『3年B組金八先生』の生徒役でデビュー。同じく生徒役だった田原俊彦、野村義男とともに「たのきんトリオ」として活躍。その後ソロ歌手デビューし、1980年代を代表する男性トップアイドルとして君臨し、ザ・ベストテンやザ・トップテンなどの歌謡番組を中心に活躍した。1981年、1983年のブロマイド年間売上成績で第1位を獲得。また、ファンによる数々の“親衛隊”も誕生。(事務所では「応援グループ」という呼び名で統一。親衛隊という言い方はさせなかった。代表的なグループは、上下関係が厳しいので1つにあげることはできない) そして、ステージ用の応援コールとして「G・U・T・Sこんどーまさひこアダルトタッチのセクシーボーイ ま~っさひ~こ~」というフレーズも作られた。また男性アイドルとしては珍しく、同年代の男性ファンも多く獲得、歌手活動と並行してテレビドラマや映画などで俳優としても活躍した。
2005年末にデビュー25周年を迎え、ソロとしては7年7ヶ月ぶりに新曲「挑戦者」をリリース(楽曲提供ロクセンチ)し、芸能界への復帰を宣言。復帰の第一弾として25周年記念ディナーショーを開催し、歌手としては約7年ぶりにファンの前に姿を現した(鹿児島、東京公演では少年隊がゲスト出演)。同年以降のジャニーズ年越しライブにもスペシャルゲストとして参加している。ジャニーズ事務所では一番の年長者である(自称ジャニーズの長兄。次兄は「少年隊」。少年隊に関して厳密なことを言うとメンバー最年長である錦織一清ということになる)。
2007年5月9日に発売されたLIVE DVDについては、映像作品では1987年3月30日付にビデオ『OH!ROCK'A MONO』で獲得して以来、実に20年2か月ぶりの1位獲得となった。2006年9月1日放送の「金曜エンタテイメント『内田康夫旅情サスペンス 岡部警部シリーズ~倉敷殺人事件~』(フジテレビ系)では「ドンウォリー!」以来のドラマ主演を務め、シリーズは2007年8月31日に第2弾として『~多摩湖畔殺人事件~』2008年9月5日に第3弾として『~十三の墓標~』が放送された。
ジャニーズの後輩達に関しては、「本来は同じ芸能界で活動するライバルなので厳しくしなければならないが、自分が一番の年長者で歳も離れているので、慕ってくればつい優しくしてしまう」と発言している。なお、親しい間柄の後輩は東山紀之、木村拓哉、堂本光一と雑誌で語った。東山や光一はマッチの曲(『アンダルシアに憧れて』など)を踊り付きでカヴァーすることがよくある。
芸能記者同士の座談会などで応対の良い有名人の一人に良くあげられている。その理由として、後述のレース活動が大きく影響しているからだといわれている。
ジャニーズ系タレントでは珍しくNHKのど自慢への出演経験がある。1997年4月13日に石川県川北町の放送で出演した後、長らく出演が途切れていたが、2010年11月21日の放送で13年ぶりに出演することが決定した。
レース活動 [編集]
ドライバー [編集]
1984年に富士フレッシュマンレース第2戦(現・富士チャンピオンシップレース)に参戦(35400人の観客を動員)したのを皮切りに、「日本一速い男」の称号を持つレーサーの星野一義のもとでレース活動を始め、1988年から1993年にかけては全日本F3選手権に参戦。
1994年には全日本GT選手権(現 SUPER GT)にポルシェ962CのGTカー仕様で参戦し、第3戦(富士スピードウェイ)で、ベテランドライバーであるチームメイトのアンソニー・レイドとともに全日本選手権初優勝を飾る。その後も、ル・マン24時間レースやフォーミュラ・ニッポンなどを中心に活躍し、多くの上位入賞を飾った。
現在は後述するチームオーナー兼監督業をメインにしているが、ミッレミリアやスーパー耐久への参戦などドライバーとしても散発的ながら活動を継続している。2007年7月にはスーパー耐久の一戦である十勝24時間レースに「FINA GSX ADVAN M3」チームの助っ人として出場し、ST3クラスでクラス優勝を果たした。
オーナー兼監督 [編集]
2000年に自らのレーシングチーム「KONDO Racing」を設立。以後の監督としての活動の詳細はKONDO Racingの項を参照のこと。「KONDO Racing」設立前の1998年には、当時所属していた「チームTMS」の協力により、若手ドライバー育成を目的に「KONDO MASAHIKO RACING PROJECT」を設立して全日本F3選手権に1年間監督として参戦し、レーシングチームのノウハウを学ぶ。そして2000年からKONDO Racingでのフォーミュラ・ニッポンへの参戦を開始し、2006年からSUPER GTへの参戦も開始した。
2007年にはSUPER GT第4戦(マレーシア・セパンサーキット)にて、KONDO Racingとしての劇的な初優勝を飾る。2008年もセパンサーキットで優勝し連覇を達成したのに続き、フォーミュラ・ニッポン第7戦(富士スピードウェイ)でも8年目にして初優勝を達成した。2009年は世界的な景気後退の影響を受けてフォーミュラ・ニッポンへの参戦は休止するが、SUPER GTには引き続き参戦。2009年SUPER GT第1戦(岡山国際サーキット)にて、豪雨を制し国内初優勝を飾った。
評価 [編集]
全日本GT選手権では優勝を飾る他数々の入賞経験があるなど活躍を見せた。しかし、若手ドライバーの登竜門の全日本F3選手権での優勝経験がない他、1995年から2000年まで参戦した全日本F3000選手権 → フォーミュラ・ニッポンと続く国内トップフォーミュラにおいては、荒天で大荒れのレースとなった1996年の最終戦に6位入賞したのが唯一のポイント獲得であり、トップフォーミュラのドライバーとしては目立った実績は上げることはなかった(なお、F3・F3000クラスのフォーミュラでの優勝経験がない国内トップクラスのドライバーは、土屋圭市や福山英朗など他にも多数いる)。
しかし、当初は「芸能人の道楽」と冷ややかな視線を送られたにも関わらず、結果だけでしか評価されないレース活動を続ける中で、地道に努力しプロのレーシングドライバーでも成し遂げることが難しい全日本GT選手権における優勝やフォーミュラ・ニッポンでの入賞など、プロのレーシングドライバーに伍する結果を出していった様子を評価する向きも徐々に増えていき、現在では元からプロのレーシングドライバーとしてデビューしたドライバーに並び、日本のレース界の中枢で存在感を持つ存在となった。「サーキット上ではアイドルの『マッチ』ではなくレーサー『近藤真彦』なので『マッチ』と呼ばないでほしい」と述べたこともある。
1995年に日産自動車のワークス・チームであるNISMOからエントリーしたル・マン24時間レースに於いては、他のマシンが600馬力、6速シーケンシャルシフト等が当然の様に装備された準レーシングカー的なマシンが跋扈する中、最大出力が450馬力程度のHパターン5速ミッションと非力で、しかも空力的にも必ずしも良いとは言えないNISMO GT-R LMというマシンながら、共に22号車をドライブするパートナーの福山英朗・粕谷俊二と共にレース中降り続いた雨の中安定した走りを続けた。そして最終的に総合10位(GT1クラス5位)に食い込む大健闘を見せた。
また近藤は四半世紀以上に渡り日本の4輪モータースポーツに関わり続け、バブル景気崩壊後や、2008年以降の世界同時景気後退後に大口スポンサーの撤退が相次ぎ国内トップカテゴリーの参戦台数が減少する中で、地道に独自スポンサーを獲得してレース活動を継続している上、独自のチームを率いフォーミュラ・ニッポンやSUPER GTといった国内トップカテゴリーで10年以上に渡り活動を継続している。特に横浜ゴム(ADVAN)とは強固な関係を築いており、SUPER GTやル・マン24時間では横浜ゴムのワークス・チームとして活動を行っている。
TBS『うたばん』に2008年ゲスト出演した際、自分の宝物としてレコード大賞のトロフィーとともに「KONDO Racing」初年度に着ていた監督シャツを並べた際に、その汚れたシャツに鑑定士の前野重雄が100万円もの値をつけたこともある。いわく「そのシャツにセパンでの優勝日付を入れてください」、そのうえでの価値と、前野が、近藤がスターからサーキットに乗り込んできた際にどれだけ先輩レーサーらから総スカンに遭ってきたかを語った。それらを誰にも言わず耐えてきた末に成し遂げた、監督としての初優勝には過酷なセパンでの優勝だけに「より重い価値がある」と説明すると、近藤は鑑定席に歩み寄って前野の手を握り涙を流した様子が、後日の名場面集『とくばん』で放映された。
レース界での交友関係 [編集]
レース界でも交友関係は広く、レーサーとしての近藤の師匠的存在である星野一義はもちろんのこと、土屋圭市や鈴木亜久里、脇阪寿一とは仲が良い。
またかつてのチームメイトとして片山右京、木下隆之、影山正彦、鈴木利男、竹内浩典など、監督とドライバーとしてエリック・コマス、土屋武士、立川祐路、金石勝智、荒聖治、山本左近、横溝直輝といった面々とも仲がよく、交友関係は幅広い。2006年から監督としてのSUPER GT参戦が決まった際には星野や長谷見昌弘の同じ日産陣営の監督らに大歓迎された。
その広い交友関係を生かし、2006年より東京・お台場で行われているモータースポーツジャパンでは、イベント全体のスーパーバイザーを務めている。
F1中継 [編集]
フジテレビのF1中継(F1グランプリ)に1989年日本グランプリでレポーターとして登場し、数年間務めた。その後、2003年からF1中継のレギュラー解説者を務めている。だがF1ファンからは解説に対して批判的な意見も多い。[要出典]
その他 [編集]
「マッチ」という愛称は、近藤が3年B組金八先生にデビューした頃は坊主頭で、事務所の先輩の松原に「お前、マッチ棒みたいだな」と言われたことによる。[1]もっとも、レコードレビュー後の近藤は、一貫して髪を伸ばしており、一番短いときでも角刈りである。短髪を披露したのはは95年夏(同時期に『最後のラブ・ソング』が発売されている)が最後である。
1981年に田原俊彦主演映画「グッドラックLOVE」の撮影中に、田原と共にその場にあった自転車を無断で乗り回し、撮影現地の警察に逮捕された。その事が報道された際、田原は20歳以上だった為実名で表記されたが、近藤は20歳未満だったため「少年A」と表記された。
2004年8月4日の午前和歌山県白浜町の白良浜沖でゴムボートから転落して溺れていた当時小学2年生の男児を近藤が水上バイクで近づいて「大丈夫だ、お兄ちゃん(=近藤)が助けてやる」と海に飛び込み救助[2]。近藤は名前も言わずさりげなくその場を去ったが、少年の父親は後で救助してくれた人物が近藤だったことを知った[3]。この事故の朝日新聞の見出しは自身の歌のタイトルから拝借された「人命救助さりげなく」であった。
2009年9月6日、第21回佐渡国際トライアスロン大会、Bタイプ(水泳2km・自転車105km・マラソン20km)に出場。自転車で転倒、右肩甲骨骨折したが完走。7時間13分9秒、順位は、Bタイプ完走者661人中389位。(Bタイプ参加者の成績・ラップタイム一覧表 [1] )
2010年4月18日開催の第26回全日本トライアスロン宮古島大会に参加し、13時間20分0秒で完走を果たした。
2010年、NHK教育テレビ「いないいないばあっ!」むけに「GOGO☆パンダ」を作曲した。
趣味は自転車 ・ミニカー収集である。
自称「日本一の雨男」。特に花火大会を観に行こうとするとなぜか雨天中止になることが多いという。2010年8月に神宮外苑花火大会に出演した際も上空に雲が立ち込め開催が危ぶまれたほど(ただし雨は降らず、大会は無事開催された)[4]。
投稿者 阿波踊り 18:12 | コメント(0)| トラックバック(0)
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